ストラディバリウスは ストラドとも呼ばれるバイオリンの名器で、
17世紀、イタリア北西部のクレモナで活動した弦楽器製作者
アントニオ・ストラディバリの名を冠している。
16世紀に生まれたバイオリンへの様式の完成に貢献した功がたたえられており、
2人の息子と共にその生涯で1116挺の楽器を製作したとされ、
バイオリン、ヴィオラ、チェロ、マンドリン、ギターを含む約600挺が現存しているそうで、
所有者や演奏家が明らかになっているものへは、愛称が付けられて広く知られてもいる。
その完成度や希少価値から、収集家やバイオリニストからは羨望の的であり、
最高落札価格は
2011年6月21日に1589万4000ドル(約12億7420万円)で落札された
1721年製のストラディバリウス「レディ・ブラント」だそうで。
『12億。』
『ちょっとした都道府県の年間予算ですわね。』
まま、世界レベルの資産家なら屁でもないのかもしれませんがと、
今日の真の主役にあたる世界的名器の話にも 触れてはいた3人娘たち。
今回お目見えとなるそれは、
そんな途轍もない代物ではないながら、それでも、
『2億1千万。』
『うわぁ、ちょっとした豪邸が建ちますね。』
楽器でしょう?弾ければいいんじゃあないの?要は演者の実力でしょうにと、
そんなところへお金をかける気が知れないなんて思う彼女らの言い分も判るが、
それこそ価値観というものは人それぞれ。
高級ブランドのバッグを幾つも幾つもコレクションするご婦人もいれば
気に入ったスポーツカーを片っ端から買い求める富豪もいるが、
そのどなたもが財力をひけらかしたくてやっているとは限らない。
そんな薄っぺらで傲慢なことをしたいんじゃあなくて、
ただ単に当人の嗜好が惹かれる対象が高価だってだけって人もいなくはなかろう。
ましてや、現存するものが大層限られている名器ともなれば、
人生かけて積み上げた資産を投げうってでも欲しいという人もいるらしく。
今回のストラデはというと、
久蔵の両親の知己で、お嬢様にも親交のある某ご婦人が、
先年、とあるオークションで落札なさった逸品だそうで。
もともとクラシックにも親しみ深いお人ではあったが、
そんなお人が念願かなって入手した逸品、
あまりの嬉しさから
是非とも 日頃可愛がっている久蔵さんに演奏してほしいというリクエストをなさり、
周辺の人々がそれならと駆けずり回ったその結果、
こたびのこの公演が実現に至ったというから…それもまた物凄い話の順番ではあるのだが。
“まま、久蔵殿が属す世界は、
そういう社交界のトップクラスの方々がおわすところでもあるのだし。”
当人には そんな心構えだの一般とは微妙に異なる価値観だのは一切見受けられないけれど、
ただ単にハイクラスなセレブが利用する施設のオーナーだから
接客上の心得が必要だ…という以上のレベルにて、
三木コンツェルンの次々期総裁候補としての技量とやら、やがて求められもするお立場なので。
スルースキルなり順応性なりも そのうち身についてゆくのだろうなぁなんて、
『???』
七郎次が親御のような眼差しで見やっておれば、
どうしたの?と小首を傾げて見せた紅ばらさんだったのが もうもうもう可愛くてっ!
「……シチさん、何を思い出していたのか当てて上げましょうか。」
「ごめん、集中する。」
控室にて交わした会話なぞ、ふと思い出してた七郎次だったが、
今はお友達の晴れ舞台に集中しなきゃねと、てへへと小さく微笑って誤魔化して。
座席に深めに座りなおすと、佳境へと入りかけている演奏に身を入れて聴き入る。
“それにしても凄いなぁ。”
バイオリンが世に登場したのは16世紀初頭と考えられている。
イスラム圏で用いられていた擦弦楽器が元ともいわれており、
当初はあまりに個性的で華美な音色を敬遠されたらしいが、
音量や音域がどんどんと改良され、
且つ、同時進行で室内楽の楽曲にも合奏協奏曲という形式が普及。
嗜好の変化ともあいまって合奏に盛んに用いられるようになり、
現在のように交響楽などで主役を張るまでとなった。
また、技巧色の強まりなどなどから、
パガニーニの奇想曲など高度な演奏技術を見せつける曲も多く作られた
“…と、ウィキ先生に載ってましたが。”
ですよねぇvv
大慌てであれやこれやを調べましたが、そんな御託はともあれ…というか、
優雅にゆったりと、はたまた激しく冴えさせた響きを紡いて響き渡る、
この妙なる音色には やはり理屈抜きに惹きつけられる。
クラシックなんて生活に余裕のある人たちのもので、何より肩が凝るばかりじゃないのと敬遠し、
日頃はユーロビートだのヒップホップだの、ノリのいい曲ばかりを聴いていても、
こうしてじかに聴くと 品のあるなめらかな音色には胸倉を掴まれる勢いで惹きつけられるし、
巧みに旋律を操る技法には、感性の壺を釣り上げられたそのまま圧倒されもする。
バラがきれいでいい匂いがするのは当たり前じゃないかと、
私はそうそう通り一遍なものへねじふせられないぞと思って肩ひじ張ってみても、
瑞々しい実物を目にするとあっさり負けてしまい、素直にうっとりするようなものかも知れぬ。
「出来のいいチョコレートみたい。」
「うん、そんな感じvv」
バイオリンの奏法というと、
音と音の間に切れ目が入らないように
一弓でなめらかに弾くというのがまずは浮かぶが、
これはそちらの用語で“スラ―”といい。
音階を変えつつ弓を上げ下げするデタ―シェでボウイング(運弓)を学び、
そこから、弓を離さぬまま、されど1音1音を曖昧にせぬよう、
音階を駆けのぼるように紡ぐマルトレ、
弦の上で弓をやや弾ませ、音にアクセントを施すスラースタッカートや、
弓を弦から跳ねさせてもっと強調する演奏法はスピッカート(跳弓)、
華やかさを演出するため、装飾音符やトリルと呼ばれる演奏手法もあって。
そちらは音の手前で指板をはじいて加える技法。
短音だったり複数回連続して入るものもあり、
演歌のこぶしのようなものだと久蔵が言っていたのは、
周りの大人の誰かの言い回しだろう。
“案外と兵庫せんせいが例えたのかもだな。” (笑)
そんな按配で、
奏者であるご本人は彼女なりの何とも砕けた接しようをしているようだったが、
“素敵だなぁ…。”
バイオリン奏者の皆様が一斉に奏でる合奏部分も重厚で、
ゆんとしなう つややかな音色が重なって逸る風のように群れ成したまま
どんどんと高みへ駆けのぼってゆくような、
そんな勇壮な展開が何とも荘厳で、シルクのような音の響きが否応なく総身をくるむ。
そうかと思えば、螺旋を描くように高低を行ったり来たりした旋律が
不安を追い立てるように空気を蹴立て、
そこから舞い上がってゆく感じが、戦火や疾風のようでもあって勇ましい。
それらが場を均したところへ パッとスポットライトが目映く投じられ、
先程もちょろりとあった久蔵さんの独奏部分が 今度は長丁場で展開するようで。
あれほどごねていた不機嫌もどこへやら、
そこはやはり好きだからと進んでたずさわっている代物だからだろう。
ハチミツの湖へ金色の飴の舟で
途切れることのない軌跡を付けつつ風に乗って進み出るような、
それはそれは甘露にしてつやめく一弓の奏でが何とも素晴らしい。
ちょっと妖冶な色も含んで、されどはしたなくはない硬質な、
高貴な甘さが舞い上がりかかったその取っ掛かりで、だが、
「………え?」
それもまた演出かと思ったのは、
音色を邪魔するような雑音混じりなことではなかったためで。
加えて大多数の人々が ただただ演奏へ全霊を吸い込まれるように聴き入っていたからだろう。
だがだが、
唐突にステージを含めた場内が真っ暗になったのはさすがに演出じゃあなかろ。
一応は暗譜なさってもいる演者の皆様だろうが、
それでも指揮者のタクトが見えなきゃ演奏にならぬからで、
「なになに?」
「停電?」
一拍ほどの間合いがあってから萎れるように伴奏の音がやみ、
独奏の音もそれへつられてか ふっと途切れる。
無音となった場内がざわざわと私語で波立ち始めて、
さすがに報道関係者が多かったからか、
スマホを点灯させる光があちこちでぽつぽつと灯りだしたそんな間合いへ、
【 ご来場のお客様、ただいまスタッフが原因を…】
「静かにしやがれっ。」
主催者側のスタッフがとりあえずの館内放送を入れたのと かぶさっての食い気味に、
ガサガサと不作法な代物ながら、いやによく通る 張りのある声が高らかに鳴り響き。
それが合図であったかのよに、
今度は客席の隅々まで照らし出すほどの眩い光が灯ってのこと、
場内が一気に白昼のごとく満たされる。
凶暴なまでの強さに、思わず手をかざしてしまったその隙間から見やった檀上。
地震や台風への備えは完璧な割に、
人為的な脅威への日本人の危機意識は特段に低いとされているのがよく判るなぁと思ったのが、
観客席にいた人々もだが、ステージで楽器を手に手に坐していた演者の皆さんも、
暗くなってもさして動じずにいらしたそのままだったらしいのがようよう判るほど、
ほぼ全員が演奏用の椅子に座ったまま、明かりが消えた直前と変わらない配置でいらしたのだが。
そんな彼らの視線が集まる先、
壇上で一人客席へ背中を向けて立ってらした指揮者の姿だけが
不自然にも二重にぶれてのぎこちなく。
「あれって…。」
「誰?」
燕尾服の背中に誰かが貼りついているせいだと判ったのと同時、
その誰かが高々と振り上げたのは、凶悪な光が濡れたようにその切っ先へと走った刃。
シーナイフと呼ばれるマリンスポーツ用の大振りでごつい仕様の刃物を握りしめ、
もう一方の腕で男性指揮者を羽交い絞めにしている人物が、いつの間にか乱入してござる。
無地のニット帽をかぶり、
ブルゾンタイプのダウンのジャケットに、作業用のそれかカーゴパンツ風のボトムという、
ありふれたいでたちながら、この場に混ざると目立っていたかもしれない恰好の男で、
「壇上へ一気に突入するのを制されないように、明かりを落としたってところだね。」
「うん。」
あの格好では、スタッフとして紛れ込むことは可能でも、場内へまではうろつけない。
とはいえ、案内係として堅苦しいセミフォーマルをまとえば動きに儘が効かない。
今日の来賓は大方が身内か報道関係者ばかりだとはいえ、
そちらへ紛れ込むには社証や身分証が必要…とあって、こういう段取りになったらしいなと。
そういう方向での目星をつけた白百合さんとひなげしさんの落ち着きっぷりへ、
“頼もしいやら おっかないやら…”
一般客は半分もいないとはいえ、それでも思いも拠らない凶行を前に、
きゃあという甲高い悲鳴の声が 二、三 上がったほどでもあり。
居ても立っても居られないと恐慌状態になられても手が付けられぬが、
冷静でいればいたで、このお嬢さんたちの場合はもっと恐ろしい展開になりかねぬ。
視線はステージへ向けたままで小さな肩を寄せ合い、
真摯なお顔でこそこそと何やら囁き合っている二人を横目で見やった良親殿が、
こちらは舞台上とお嬢さんたちとへ注意を払い始めたところ、
「おら。そこの女、そのバイオリンをこっちへ渡せ。」
……はい? ×@
乱入男が威嚇的な大声で放った文言に、
場内のほとんどの人々が ついのこととて訊き返しのリアクションをしてしまう。
まま、ここは銀行でもなければ宝石店でもなく、
議場でもなければ、本公演ではないので名のある来賓も不在。
金目当てや貴金属目当て、はたまた権力者を楯にというテロ目的での闖入はありえない。
それなりの騒動を起こした上で人の命を楯に何かを要求したいとして、
じゃあ何のために?…と思考を広げて まずはと思いつくものを、
指揮者が立ってた檀上のすぐ間際、
いまだ やや呆然と突っ立っておいでの金髪の美少女が、
そういや可憐な白い手へしっかと握って提げておいでだということ、遅ればせながら思い出す。
そう。2億1千万で競り落とされたというストラディバリウス
素人目には何の変哲もない小さな楽器が、
そんな途轍もない価値持つお宝だということは、この場にいる皆さんがご存知。
コンサートの宣伝の中には謳われていなくとも、
その筋の好事家や情報通なら やはりよくよく知ってただろう事情であり。
「…でも、シリアルナンバーもどきの愛称付きだから、
売り飛ばしての換金なんてそうそう出来ないはずだけど。」
「だよねぇ。」
それでもね、例えばずんと昔、
とある県が「ふるさと創生事業」政策によって配分された一億円を使って制作した
純金のカツオが盗まれた。
別の県ではしゃちほこを作ったところ、やはり展示用のが盗まれて、
カツオ像のほうは犯人も知れたが しゃちほこの方は不明のままじゃあなかったか。
確かに間違いのない純金製で、それなりの価値もあろうが、
特殊な上に出自がはっきりしすぎていて売り飛ばすのに難がある。
誰にも見せずに悦に入りたいという好事家がいたとしても、
そこへの連絡、連携パイプを持つ身でなければ結果としては宝の持ち腐れ。
闇雲に当てを探しても、そっちの世界の海千山千に踊らされ、
下手を打てば原価以下に買いたたかれるのがオチ…であろうにと。
なんて無謀な犯行かという点へ呆れ半分な声を出したお嬢さんたちへ、
「発注を受けた手合いかも知れませんよ?」
端正なお顔をやや真摯な冴えに研ぎ澄まし、
良親殿がそうと口を挟んでくる。
そんな見解を口にしながら何やらごそごそ手元を動かしていて、
七郎次がそおと見やれば、
男の人らしい大きくて頼もしいが、無駄なく動いて美麗でもあるその手で、
極細のワイヤーだろう金属線を両の手の間へピンと張るよに伸ばしておいで。
火種のバイオリンを緊急退避させるのか、
いやそれでは乱暴だろうから、久蔵さんのほうを…
“いやそれも危ないでしょうよ。”
そも、これだけの衆目がある中、ワイヤーでどうしようというのだと、
誰ともなくのツッコミが入りかかったほどには満席状態だった客席が、
やっとのこと事情を把握した人々の立てる声で どよどよどよと騒然とする。
人質取った悪漢の要求は皆へも聞こえ、
言う通りにしなければ、
こちらの楽団専属の指揮者にナイフを突き立てるぞということなのだろうが、
「あんなお嬢さんにそんな怖い脅しをかけるなんて。」
「ああ、あんなに強張ってしまっておいでだわ。」
華奢な肩も頼りなく、恐怖のあまりに立ち尽くすばかりな、
白皙の美少女のように見えているかもしれないが。
「…まずい。」
「え?」
久蔵殿、足元をしっかと踏みしめてますよ、あれ。
ロングドレスだから判りにくいけど、あ・ほら、軸足残して右足引いたし、と。
何かの試合観戦のような、冷静な言いようをするお嬢さんたちなのへ、
そこまでは把握出来ていなかった良親さんがぎょっとする。
ただし、今回ばかりは 七郎次や平八の側も
“待ってよ待て待て”と、そのお顔がやや引きつっていたのは、
お友達の綺麗な手に握られたままになっているものが、
いかにも乱暴で傲慢な態度のゴロツキの手へ、
素直に進呈されるはずはなさそうな嫌な予感がしたからで。
「……。」
初老の指揮者様をナイフを握った側の腕にて羽交い絞めにし、
空けた左手をこちらへと伸ばして見せる。
不自然な体勢になれば何処からか不意を突かれて危ないことは心得ているものか、
焦って手を伸ばすことはせず、険のある顔で“早くしねぇか”と怒鳴りつけ、
人形のような冷たい無表情なままの令嬢へと、
なかなか辛抱強くも威嚇の顔を向け続けていた暴漢であったのだけれども。
「………。」
ドレスに合わせた真っ赤なエナメルのハイヒールは、
爪先が心細いまでに細く尖って愛らしく。
チュールの重なりの先からそれがちょこりと覗いたことで、
彼女が一歩を踏み出したことを示したものの。
さあ寄越せと催促するよに降られた手の先、
お嬢様の金の髪が一旦低く下がったのへ、
え?と不意を突かれたように間の抜けた顔となった次の瞬間
ひゅん、と
直前までは優雅な演奏に満ちていて、そして今は緊迫に凍り付いてのこと、
時間ごと空気もひたりと止まっているかのような空間だったのを。
何処からともなくなんて猶予のあるそれじゃあない、
いきなりの直近で捲き起こった疾風が駆ける。
魔法で呼び出された狼のように鋭くも力強い剛の風が、
あっという間というたとえの
“あ”の a音が形になるより前に沸いて、且つそのまま掻き消えた素早さよ。
「…え。」
「な……。」
脅されて、それでも勇気を振り絞って
犯人の要求通りにがちがちなまま一歩進み出た少女。
左手へ弓と一緒にまとめて提げていた
小さな、だが、莫大な価値のある名器を、
差し出そうと持ち上げたところまでは何とか見届けていられたが、
そのあとがどうにも、判らなくって
ただ……
がしゃばき・めきょびん・ばんきん、と。
何か固いが軽いものがどこかへ叩きつけられて、
儚くも壊れ去ってしまったような破壊音とそれから、
弦がはじけた音だろう、かすかに悲鳴のような音もして。
指揮台のうえへ立っていたシーナイフの男が、
その顔を不自然にも真横へと振り切るほど背けたまま、
狭い足場でたたらを踏み、そこから足を踏み外して転がり落ちてゆくのが見える。
羽交い絞めにされていた指揮者さんはというと、
独奏担当のお嬢さんが引き留めるように腕を取っていて、
落下からも卑劣な凶器からも逃れるよう、反対側へそおと引き下ろされており。
そのお嬢さんの手には、つい先程まで奏でていたバイオリンがない…
「え?」 × @
別な意味からのパニックが起こりそうな、
そんな不吉で不安定な空気が 場内へと充満しかかったそんな間合いだったれど。
「…久蔵殿、金管楽器の奏者の皆様から離れて。」
ひなげしさんがスマホへそんな声を掛けており、
その横では七郎次が一見カラーボールのようなものをまずは手元で軽く宙へと放ってから、
上体をひねりつつ肘を後背へ引き、そのまま素早くぶんと…手首のスナップも巧みに投げたではないか。
的をたがわずな結果だろう、ステージ上へと叩き込まれた小さなボールは、
板張りの上でパンと弾けるとその容積には到底見合わぬ量の白煙を吹き出して。
「な、なんだなんだっ。」
今度こそは危機感に突き動かされたか、
壇上に居残って固まっておられた楽団の皆様も 統率などないバラバラながら立ち上がる。
そこへもう二、三個ほどボールが放り込まれたようで、
煙の幕が一層濃くなり、いかにも大変な様相に舞台はただただ騒然となってゆくばかり。
そんな彼らが逃げ出す姿に釣られ、客席でもきゃあと悲鳴があちこちから上がり、
狭い通路へ逃げ出す人が押し合いへし合いしかったが、
「大丈夫ですよ落ち着いて、」
通りの良い女性の声がして、ぽつりと灯ったのがスマホの明かり。
「あれは犯人を逃がすため、仲間が投げ込んだ煙玉。
間違って客席にも飛んできましたが、」
「いやん怖いとわたくしが咄嗟に打ち返したので客席側は無事です。」
桜色のワンピース姿も可憐な、金髪に白い頬のそりゃあ麗しいお嬢さんが、
白い両手を胸の前へ組み、健気な、だが真摯なお顔で訴えて、
「さあ、ロビーへ逃げましょう。
警備の方が突入してくるのに巻き込まれぬよう。」
怯えさせて急がせぬよう、落ち着いた声で語りかけ、
さあさと手を伸べた先には、
引っ張り出しかけていたワイヤーを手元から垂れさせたまま、
呆気にとられていた美丈夫さんが立っており。
まさか自分へ振られるとは思ってなかったらしいが、
「あ、や…そ、そうですね。
慌てないで大丈夫、こちらとそちらの通路に分かれて。」
ややこしいものはジャケットのポッケへ引っ込めつつ。
すぐさま余裕の笑み浮かべ、
周囲に居合わせたお嬢さん方の肩に触れ、はたまたやさしく二の腕を支えて差し上げて、
足元に注意して、気を萎えさせないで頑張ってと励まし始めるから、
さすが緊急事態における切り替えにも重々長けている御仁であり。
そんな誘導がうまくはまっているのを見越すと、
「では。」
「いきますか。」
そちらは逆に舞台へ向かって駆け出した白百合さんとひなげしさん。
階段上の通路を軽快に駆け下りて、
ステージの高さをかんがみ、ひゅっとひなげしさんが投げた鉤付きのチェーンベルトは
あらまあ・もしかして、
飾りに下がっているチャーム部分の装飾が馬具の鐙よろしく足場にもなる優れもの。
それがステージの端っこへがっつりはまったのへ飛びついて、ひょひょいと昇っていけば、
煙幕に満ちた中、小さな四角い赤い光が泳ぐのが見えて。
「久蔵殿。」
平八が遠隔操作で液晶画面のカラーリングを切り替えて、彼女だと判る標識としたスマホ。
それへ駈け寄れば、どこに落ちていた棒か、よくよく見れば譜面台を畳んだものを振りかざし、
向かって来る礼服姿の数人を右へ左へ薙ぎ倒している最中のお嬢さんであり。
「久蔵殿、くうちゃんの好物は?」
突然、そんな言いようを投げかけた七郎次だったのへ、
戦闘中だった彼女の動きがぴたっと一瞬止まったが、
それも計算づくのこと。
燕尾服の男性の手で振り下ろされてきたチューバもどきの鈍器を
そおれと頼もしくも蹴り上げてから、
何がなんだかと訳も判らぬまま静止してくれたお嬢さんの傍へ駆け寄ると、
「失礼。」
サッとしゃがんでロングスカートの裾を両手で掴み、
そのまま左右に引き広げ、脇の部分を一気に腿辺りまでざぁーっと引き裂いて差し上げる。
たっぷりして見えてもそこはドレスだ、足元が窮屈だったらしい紅ばらさん、
ぱぁっと喜色満面…に見える人は限られるお顔になって、
「シチっ。」
屈んだままでいよとの一声と同時、
二人の元へなだれ込んで来たフルート奏者だった女性を、
これは手刀の一閃で薙ぎ払う。
「やっぱりね。楽器の金属反応って真鍮が中心のはずだろに。」
フルートは席に残して、その代わりにとケースから取り出したそれだろう、
無骨な鉄パイプを手にしていたお姉さんが、鈍痛にあえぎ、宙を見上げたそのまま意識を失う。
突入してきた実行犯の他にも、逃走への援護でもするつもりだったか助っ人が混ざっていたようで。
そんな物騒な手合いの存在、平八が金属素養解析スキャンを掛けて察知してくれてたおかげさま、
十分に間合いを取れての立ち向かうことが出来ており。
続けざまに二人ほど、譜面台の露にして伸したところで、
「…ところで、久蔵殿。」
「???」
「あのあの、さっきもしかしてバイオリンであの男を叩き伏せませんでしたか?」
二億一千万円のパンチを食らった男は、指揮台とそれからステージからも落ちた衝撃で伸びたまま。
彼女らの足元にもちりぢりに転がる木製の残骸は、あの名器のなれの果てなのかと
恐る恐る平八が訊いたれば、
「…、……。(否、否)」
ちょっと考えてから、あああれなぁという納得顔になり、
「こんのぉ…、はがっ。」
三人のところへ突っ込んで来た怒号付きの人影を
そちらを見もせずという片手間に
譜面台で横薙ぎに切り伏せ、もとえ、薙ぎ倒しつつ、
金の綿毛を振り振り、違うぞと否定して見せる。
「レプリカ。」
「え?」
「なぁんだ、よかったぁ。」
そもそも粗忽者な久蔵お嬢様に
そんな大層なものを預けられるはずがないと、榊せんせえが言い張って。
現物は当日に持ち込み、演奏開始と同時に初めて手に出来るよう、
壇上へ警備員付きで運ばれる手はずになっているのだそうで。
「それでも、
初心者用のであれ本体だけで五万円前後はするんですけどね。」
だというに、何の迷いもなくあっさりと、
手ごろな得物扱いにして、襲撃犯の横っ面を思いきり叩きのめす道具にしてしまったお嬢様であり。
やっぱりこういう運びになっちゃいましたかと、呆れたように言葉を挟んで来たのは、
客席の整理を任される格好で、
こちらの大暴れを制すお役目、果たせなかったのが悔しそうな
紅バラ様付きの護衛担当、良親殿で。
何とか賊は浚い終えたか、静かになった場内は煙幕もじわじわと晴れてきつつあり、
そんな中に姿を現した上背のあるお兄さんはというと、
スマートに着こなしておいでだったスーツの上着を脱いでいる。
あらそっちでも乱闘が?とでも懸念したのか小首を傾げる七郎次へ、
「寒そうな恰好のお嬢さんに掛けてやりました。」
そうと返すところは、
出し抜かれても消沈せず、
フェミニストっぷりを発揮するほどに余裕のあるお人でもあるのだが。
それでも思い通りに運ばぬものへの慚愧の念とやらは沸くらしく、
まったくもうもうと腰に手を当て、どうしてくれようかというお顔を見せるのが、
不謹慎ながら、こちらのお嬢さんたちにはちょっぴり可笑しくてたまらない。
振り回すことが本意ではなかったが、
彼ほど要領の良さげな、手練手管も多そうな人物を
手も足も出させぬよう翻弄できたのはちょっぴり快感でもあるようで。
「まあまあ、丹羽さんもこういう騒動までは予見してなかったんでしょう?」
「言わんでくださいな。」
ポスターも貼り出したほどには宣伝もしていたが、所詮は二日で四ステージという小ぶりな催し。
まさかこうまで派手な存在に襲われようとは思わなんだようで。
“とはいえ、彼女らを真っ先に避難させられなきゃ、
こっちの黒星って事案だもんなぁ、これって。”
どこかの犯罪組織というほどの、とびぬけた手練れが手掛けた奇襲じゃあなかったようだけど、
それでも、危ない立ち回りにお嬢さんたちを飛び込ませたところで黒星一つと。
結構自分に厳しいエージェント様、
周囲に転がる屍を見回し(屍じゃないし)、やれやれと も一度ため息ついて、
知己である警部補殿への連絡をと、スマホを取り出したのでありました。
〜Fine〜 17.02.16
*ちゃんと釈明して回らないと、
各紙の一面へ“二憶一千万円の名器がお釈迦”とか書きたてられちゃうぞ?(笑)
それはさておき、
バレンタインコンサートと銘打ちたかったのですが、
間に合わなかったのでそこはぼかさせていただきました。
ちなみに、久蔵さんのポスター用のお写真、
女の子らしいワンピ姿で撮ったものもありまして。
ちょっぴり含羞みつつの上目遣いにて、
胸元にチョコだろう真っ赤な包装がされた小箱を抱えておいでという代物。
可愛らしい含羞みのお顔をどうやって撮ったかといやぁ、
「カメラマンさんの隣に七郎次さんに立っててもらって、
可愛いなぁ、ほら もぉっといいお顔してvvと
やたら愛想を振りまいてもらっただけだ」
「…七五三写真の要領ですね。」
めーるふぉーむvv


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